池田満寿夫



池田満寿夫(いけだますお 1934年2月23日生)
 [芸術家]


 旧満州に生まれ、戦後長野県で育つ。自分で描いた裸婦像を学校の廊下に貼り出して問題になり「これは猥褻ではなく、エロスだ。」と学校側に抗議したことがきっけけで“エロス”というあだ名で呼ばれていた。そのあだ名に相応しく、池田は生涯にわたってエロティシズムをモチーフに創作活動を続けることになる。高校在学中に絵画が入選、画家を志し上京するが、東京芸術大学の受験に3度失敗し大学進学を断念。このうち、1回は油絵科志望、2回は彫刻科だった。酒場で似顔絵を送りながら19歳で自由美術家協会展に入選。その後、画家、瑛九の勧めで色彩銅版画の作製に取り組む。1957年に東京国際版画ビエンナーレ展に入選。1960年には同展で文部大臣賞を得て脚光を浴びた。

 1961年には、上野・不忍画廊で初の個展を開く。1965年には、ニューヨーク近代美術館で日本人として初の個展を開き、話題となる。1966年、32歳のとき、棟方志功に次いで版画家としては最高権威のヴェネツイア・ビエンナーレ展版画部門の国際大賞を受賞。池田の名を国際的にも第一線の芸術家にした。

 後に水彩画や文学方向にも関心が傾く。1977年には『エーゲ海に捧ぐ』で芥川賞を受賞。この『エーゲ海に捧ぐ』は、絵画・歌・小説・映画とマルチな分野で池田自身の手によって現され、非常に話題となった。

 1980年代以降は、テレビにも盛んに出演、人気クイズ番組「日立 世界・ふしぎ発見!」の準レギュラーなどで一般大衆への知名度もアップし、文化人としても活躍したが、晩年、陶芸制作に没頭したことはあまり知られていない。1965年に初訪米したときから、米国陶芸界の第一人者であるピーター・ヴォーコスと交流。帰国後の1983年から陶芸にも没頭した。死の3年前に制作した般若心経シリーズの作品は池田の陶芸作品の中で最高傑作といわれる。般若心経という精神世界を平面ではなく、立体的に造形化した。地蔵や佛塔の作品などは、エロスの作家といわれた池田版画のイメージとは全く異なる。池田の陶芸作品はあえて割れるように制作したのが特徴であり、池田本人は“破壊の美学”と述べている。

 国際的に精力的な創作活動を展開し、多忙な生活を送っていたが、1997年3月8日、静岡県熱海市の自宅で愛犬に抱きつかれて昏倒し、心不全にて急逝。4月から多摩美術大学教授への就任が内定しており、後進の指導にも当たろうとしていた矢先の死だった。

 池田は19歳の時に10歳年上の女性と入籍していたが、その女性が離婚に応じなかったため、生涯戸籍上の妻はこの女性のみで、その後に同居した作家・富岡多恵子やバイオリニスト・佐藤陽子などは内縁の妻だった。終生連れ添うことになる佐藤とはおしどり夫婦として知られ、池田の講演と佐藤の演奏をセットにした催しなども行っていた。

 池田は画家・版画家・挿絵画家・彫刻家・陶芸家・作家・映画監督と、多岐にわたる分野で足跡を残したが、高い知名度に比べその芸術活動について、生前から正当な評価を受けていたとは言いがたい。また、版画、油彩についての本格的な評論は生前も死後もほとんどない。小説についても同様である。むしろ、芥川賞受賞後、文壇から「たかが画家が芥川賞を取ったのはけしからん」と受け取れるような悪意ある激しい批判を受けた。テレビ番組やCMなどへの出演を始め、マルチタレントとしての活躍ぶりに対しても美術界から声にならない“反発”があったと見られる。当時、芸術家はアトリエにこもって制作していればいいとの感覚があったからである。

 1997年3月8日死去(享年63)


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