前田長吉



前田長吉(まえだちょうきち 1923年2月23日生)
 [騎手]


 青森県出身。農家の8人兄弟の四男(7番目の子)として生まれた。幼いころから才能に秀でて何をやらせてもできたといい、カイバ桶に入れた熱湯に板をつけてしならせスキー板を作ったり1937年の14歳の時にはその年の11月に八戸市で開かれた八戸市養鶏組合主催の大会で軍鶏の養育部門で3等賞を受けたりしている。

 その後競馬の世界に興味を見出し地元の学校を卒業後上京、1940年、北郷五郎厩舎に入門した。しかし入門から半年後、北郷が亡くなってしまったため同厩舎所属の騎手・田中康三と3頭ほどの馬と共に尾形景造厩舎に入り1942年2月7日に見習騎手になった。5月10日にデビューし、そのデビュー戦はスタート直後から先頭に立ち手綱を抑えたまま楽勝でゴールした。

 1943年、自厩舎所属のクリフジに騎乗することになった。長吉の騎乗ぶりは師の尾形いわく「真面目にきちんと指示通りに動いてくれた」という。それを思わせるエピソードとしてクリフジがデビューから3戦目に出走した東京優駿競走であろう。25頭立てという多頭数だったため中々バリヤー(当時の発走はスターティングゲートではなくバリヤーゲートを使用していた)に全頭が上手く揃わず、行儀の悪い馬もいて自分の枠に入れなかった。空いてる所へ入ろうとクリフジを横に向けた瞬間、スタートが切られてしまい大きく出遅れてしまった。しかし長吉はそれにも臆することなく落ち着いて騎乗し、最後は2着に6馬身もの差をつけて圧勝した。この時長吉は20歳3か月であり、今に続く東京優駿(日本ダービー)の最年少優勝記録となっている。

 その後クリフジで阪神優駿牝馬(現:オークス)、京都農商省賞典四歳呼馬(現:菊花賞)を制しクリフジを(変則)三冠に導いた。なお、阪神優駿牝馬の3日前の1943年9月30日には晴れて正式な騎手となっている。1944年にもヤマイワイで中山四歳牝馬特別(現:桜花賞)を制し東京優駿競走でもシゲハヤに騎乗し、2着になっている。なお長吉が最後に騎乗したレースは分かっていないが、クラシックでいえば東京優駿競走(6月18日)が最後である。

 クリフジが引退して約5ヶ月たった同年10月14日、軍隊から召集命令が来て入隊、物資輸送を担う輜重兵第一〇七部隊に配属され旧満州に出征した。尾形によると出征を目前に控えた長吉は「別れが辛い」と泣いたといい、出征前に里帰りした時も家族に「(戦争に)行きたくない」と漏らしていたという。戦後は旧ソ連の捕虜となりシベリア・チタ州にあったブルトイ収容所で強制労働をさせられた。そして23歳になったばかりの1946年2月25日、同州カタラ地区のボイルド収容所で病死、現地に埋葬された。

 その後収容所は閉鎖されたため長らく遺骨の所在が分からなかったが2000年8月、政府の遺骨収集団がシベリアに派遣され収容所跡で何名かの遺骨を発見、日本に持ち帰った。遺族の申請に基づき厚生労働省が遺骨と戦没者の家族から提供された検体のDNA鑑定を2003年度から開始し進めた。

 2005年秋、遺骨収集団の一人が遺骨の早期帰還のため情報提供を呼びかけようと出演したテレビのニュース番組で旧ソ連から提供された「抑留中死亡者名簿」の青森県出身者のページで「前田長吉」の名を前田の遺族が見つけ、その年の暮れにDNA鑑定を申請していたところ2006年6月2日、その中の1つが前田の遺骨であることが確認され7月4日、死から60年振りに遺骨が生家に帰り3日後の7月7日、無事前田家の墓に納められた。なお「競馬の神様」と呼ばれた大川慶次郎は生前、前田の縁故者を探し続けていたがついに亡くなるまで見つけることは出来なかった。2014年には実家から新たに20数点もの手記、徴兵検査通知などが発見されている。

 長吉の体形は身長が150cmに満たず体重も40kgを少し超える程度でしかなかったようでベストには鉛板の錘が入ったポケットが前後についており、負担の斤量を満たすため錘入りのベストを着て騎乗していたのではないかといわれている(ポケット全てに錘を入れると、ベストの重さは約10kgほどになるという)。

 その騎乗技術、センス、人柄については師である尾形は没後も高評価を与えており「もしも戦争がなければ、保田隆芳や野平祐二と肩を並べる騎手になったかもしれない」とその才能を惜しみ、長吉と同時期に騎乗していたある元騎手も「もし生きていれば、尾形厩舎のいい馬にどんどん乗って、大変優秀な騎手になっていたはず」と語っているように無事に戦地から復員が叶い競馬界に復帰出来ていたならば戦後日本競馬の三大騎手と称される保田、蛯名武五郎、野平と覇を競うだけの実力のある騎手になっていた可能性があり、この若きダービージョッキーの夭逝は戦争により日本競馬界が被った喪失として軍馬に徴用されたダービー馬カイソウと並んで真っ先に挙げられるものである。

 実際それだけの評価を受ける技量と人格の持ち主でありクリフジやヤマイワイで実績も残しているものの、活躍した時期が戦中期であった社会全体が厳しい情報統制下にあった上に混乱しており、当時の競馬全般についても乏しい量の記録と情報しか残されていない。戦前・戦時中の競馬は軍馬の品質改良を大きな目的の1つとして掲げて行われていた一種の軍需産業であったことなどから、終戦の際に多くの記録類が破棄されている。また、競馬の世界には見習騎手の時代を含めても実働2年半という戦時中の短期間しか身を置いていないことも重なって、その人物像は今なお謎に包まれている部分が多い。

 そのため後年、不運な落馬事故で重傷を負い、重い後遺症ゆえに競馬界から離れることを余儀なくされた福永洋一と同様に現代にあってはもはや伝説めいた存在になっている。

 1946年2月25日死去(享年23)


<<重要なお知らせ>>

@peps!・Chip!!をご利用頂き、ありがとうございます。
@peps!・Chip!!は、2024年5月末をもってサービスを終了させていただきます。
詳しくは
@peps!サービス終了のお知らせ
Chip!!サービス終了のお知らせ
をご確認ください。



w友達に教えるw
[ホムペ作成][新着記事]
[編集]

無料ホームページ作成は@peps!
無料ホムペ素材も超充実ァ