仲みどり



仲みどり(なかみどり 1909年6月19日生)
 [女優]


 東京市生まれ。仏英和高女に進学するが中退。大阪のウヰルミナ女学校を卒業後、浅草の剣劇団「明石潮一座」を経て1931年、築地小劇場内に設立されたプロット(プロレタリア演劇同盟)研究所に入所。同年劇団東京左翼劇場で新劇女優として初舞台に立つ。東京左翼劇場が新協劇団に吸収される形で解散した後は、映画出演、喫茶店の経営、陸軍戦地慰問団への参加などを転々とし、1942年、丸山定夫らの立ち上げた苦楽座に参加する。苦楽座解散後に丸山が結成した移動演劇櫻隊にも参加し全国各地を巡業するが、1945年8月6日、櫻隊として広島市滞在中に原子爆弾が投下されたことによって被害を受ける(櫻隊メンバー9名のうち森下ら5名が即死、4名が後に原爆症で死亡)。東京に戻った後、同年8月24日に入院先の東大病院で死去。

 原爆投下後、仲は宇品の臨時収容所に避難したが、医療施設が全滅したために手の施しようがない収容所の惨状に危機感を募らせて脱走し、8月8日に復旧した列車で命からがら東京に逃げ帰ってきた。帰宅後、極端な食欲不振と胸の苦痛に悩み、8月16日に東京帝国大学付属病院に入院。同病院には幸運にも放射線医学の権威・都築正男教授がいたため、仲は手厚い看護を受けることが出来たが、背中に出来た肉腫の悪化、脱毛、高熱、下血、胸の苦痛など原爆症の症状は悪化の一途を辿った。白血球数が400しかないという常識外の事態も医師たちを困惑させた。しかし、苦痛をやわらげる処置が功を奏したのか、8月24日、仲は安らかに息を引き取った。一緒に被爆した丸山、園井恵子、高山象三らは苦しみ悶えながら満足な医療を受けられず壮絶な最期を遂げた。

 死後、綿密な剖検が行われ、死因は「原子爆弾症」と特定された。これにより、仲は医学的に認定された原爆という核兵器による攻撃の被害を受けた人類史上初の原爆症患者とされる。被爆直後から臨終まで続いた胸部の苦痛の原因となった出血した肺と、機能低下し再生不能性貧血の症状を示す骨髄は、標本として今も同病院に保存されている。

 1945年8月24日死去(享年36)





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