園井恵子



園井恵子(そのいけいこ 本名:袴田トミ 1914年8月6日生)
 [女優]


 岩手県出身。3人姉妹の第一子として出生。幼少時に実家は経済的苦境にたたされ後に北海道へ転居。北海道立小樽高等女学校を2年で中退して宝塚歌劇団に入団、1929年初舞台。男役として活動。しかし実家が翌年破産。園井は彼女を追って宝塚市へ転入した両親・妹たちの扶養を余儀なくされる。

 演技力は入団三年目の1931年に当時の劇団上層部から「今年最大の収穫」といわれたほど高い完成度を誇った。後年は身長の問題(155cm)もあり女役、とくに母親役にまわる。また園井一家の経済的苦境を見かね、演技力・善良な人柄を評価していた小林一三ら、劇団上層部のすすめで在団後期から、宝塚映画「山と少女」、「雪割草」(1938年)、「南十字星」(1941年)、「南から帰った人」(1942年)などに出演した。

 退団直後の1942年11月に東宝演劇研究会公演の『ファウスト』(帝国劇場)にマルガレーテとグレーチヘンの主役二役を客演。1942年12月3日、丸山定夫らの「苦楽座」の旗揚げ公演に出演。戦局、言論・表現の統制、依然続いた一家の経済的苦境、薄給の逆境の中で舞台活動に打ち込む園井に転機が訪れる。宝塚の先輩にあたる小夜福子の推薦で大映『無法松の一生』に吉岡良子役で出演。映画は1943年に公開され、気品・美貌の誉れ高く一粒種の愛息へ深い愛情を注ぐ軍人の未亡人役を外見・内面とも見事に表現し、阪東妻三郎、吉岡敏雄、長門裕之等とともに映画の大ヒットに貢献した。

 このヒットで大映から専属契約の依頼を受ける。『無法松の一生』監督の稲垣浩や東宝で監督をしていた山本嘉次郎からも出演の依頼があったが、園井自身が「今の自分は未熟、もっと実力を磨くべく苦楽座での活動を続けたい」旨固辞。のちに「苦楽座」の中心メンバー俳優丸山定夫の誘いで軍隊慰問公演などの移動演劇隊“櫻隊”に参加。しかし園井の選択は最悪の結末に直結してしまった。

 1945年8月6日(奇しくも園井誕生日)の朝、櫻隊「無法松の一生」中国地方巡回公演の為、広島市内滞在中に原爆が投下された。東京に帰っていた事務長・槙村浩吉と6月に戦争に召集されていた多々良純を除く隊員9人(男子2名、女子は園井を含め7名)が被爆。爆心地の至近距離での被爆であった。5人の女子隊員が倒壊した家屋の下敷きとなり、発生した火災で生きたまま焼かれ同日中に死亡。しかし園井は丸山、高山象三、仲みどりとともに屋外に吹き飛ばされ下敷きを免れ、一命をとりとめた。外見上は無傷でその日のうちに実家の家族のもとに無事の旨手紙を出したという。高山と一緒であったものの丸山・仲と混乱の中ではぐれてしまい、このまま広島に居続けるのは良くないと判断。そしてまだこのときは体力的に問題が無かったことから運行再開した列車第一便で神戸市在住の宝塚時代の知人宅へ避難。8月8日神戸に到着。しかし皮肉にも到着の矢先、園井・高山両名に原爆症の諸症状(脱毛、諸部位の内臓・皮下の出血、高熱が続く状態他)が次々現れ、知人らの看護もむなしく高山が8月20日にわずか21歳の若さで他界。園井も翌8月21日、原爆症による耐え難い苦悶のうちに痛ましい最期をとげた。(丸山も8月16日宮島で44歳、仲も8月24日東大病院で36歳でそれぞれ原爆症のために亡くなっている)。

 1945年8月21日死去(享年31)


<<重要なお知らせ>>

@peps!・Chip!!をご利用頂き、ありがとうございます。
@peps!・Chip!!は、2024年5月末をもってサービスを終了させていただきます。
詳しくは
@peps!サービス終了のお知らせ
Chip!!サービス終了のお知らせ
をご確認ください。



w友達に教えるw
[ホムペ作成][新着記事]
[編集]

無料ホームページ作成は@peps!
無料ホムペ素材も超充実ァ