リチャード・バーンズ



リチャード・バーンズ(Richard Burns 1971年1月17日生)
 [イギリス・ラリードライバー]


 リチャードはレディングのロイヤル・バークシャー病院で生まれた。8歳になると家の近くの野原で、父親の古いトライアンフ2000を運転し始めた。彼は11歳で17歳以下の自動車クラブに加わり、そこで1984年にドライバーとなった。1986年に彼の父親はニュートンの近くにあるジャン・チャーチルズ・ウェルシュ・フォレスト・ラリースクールに彼を入校させた。彼はそこでフォード・エスコートを運転した。その後リチャードは故郷レディングのクラヴェン・モータークラブに加入し、デヴィッド・ウィリアムズの支援を受けイギリス国内選手権に参戦する。

 1990年にデヴィッド・ウィリアムズがリチャードにプジョー・205GTIを与え、彼はプジョー・チャレンジに参戦、シリーズチャンピオンとなり、グレートブリテン・ラリーでWRCデビューを果たした。翌年はイギリス・プジョーのワークスドライバーに抜擢、1992年まで同チームに在籍する。1993年に彼はスバル・プロドライブに加わり、同僚のアリスター・マクレーとイギリス国内選手権を争い、リチャードは同年最も若いチャンピオンとなった。その後もWRCやAPRCを戦うも、思うような走りが出来ず、最高位は1995年のRACの3位。

 1996年に三菱に移籍すると、メキメキと力をつけ、ノンタイトル戦のニュージーランドの初優勝を皮切りに、1997年はサファリで2位、アクロポリス、RACではトップ争いに絡む走りをみせ、1998年のサファリ・ラリーでWRC初優勝を達成する。その後も、初出場のフィンランドで5位、同年の最終戦、ラリー・オブ・グレートブリテンでシーズン2勝目を挙げ、三菱のマニュファクチャラーズタイトル獲得に貢献した。

 1999年は古巣スバルに復帰。序盤はマシンの熟成不足とピレリタイヤの開発不足で出遅れるも、中盤にマシンとタイヤの開発が進むと持ち前の速さを発揮し、アクロポリス、オーストラリア、グレートブリテンで勝利し、ドライバーズタイトル2位で終える。翌2000年はクリスチャン・ロリオーが開発したインプレッサWRC2000で、ラリーを盛り上げるも、あまりにも革新的な設計が仇となり、あと一歩のところで、グロンホルムにタイトルをさらわれてしまう。2001年は、ニューマシン、インプレッサ2001のマイナートラブルに悩まされるも、堅実にポイントを重ね、ニュージーランド・ラリーでの一勝のみであったが悲願の世界チャンピオンを獲得。そして、イングランド出身では初の世界チャンピオンとなった。

 2001年シーズン後、移籍を表明していたリチャードだったが、スバルとの契約の中に「タイトルを獲得した場合、その翌年もチームに残留する」という契約文が明記されていたため、スバルとの間で問題が起こるも、プジョー、スバルの紳士協定で沈静化し、無事に新天地、プジョーに移籍。しかし、安定した走りをみせ、ポイントを重ねるも勝利を飾ることは出来ず、次第にもうひとりのエース、グロンホルム中心で運営されているチームにリチャードは不満を覚える。

 翌2003年も安定した走りでポイントを重ねるも、11月の最終戦ラリー・グレートブリテンに参加するため、マルコ・マルティンとともにカーディフに向かうため愛車のポルシェを走らせていたところ、高速道路上で失神。同乗していたマルコ・マルティンのとっさの判断で事なきを得たが、病院で検査の結果脳腫瘍が発見。急遽、ラリーを欠場し、その代役として、この年、ヒュンダイのシーズン途中の撤退でシートを失っていた、フレディ・ロイクスが務めた。リチャードは以前より、ベルギーのラリー記者ミシェル・リザンに「最近、走っていると記憶が無くなるときがある」と洩らしていたという。リザンはその言葉に一抹の不安を感じたが、予感は的中することとなった。

 リチャードは2004年シーズンスバルへ復帰する予定となっていたが病気治療のため静養し、結局、この年が実質的な引退となった。一時は回復の兆しも見せたが、2005年8月にファンにみせた姿が最後となってしまった。その年の11月25日、脳腫瘍のため死去。

 発見された脳腫瘍は当初治療できる程度のものと言われていたが、悪性脳腫瘍のひとつで極めて治療の難しい星状細胞腫であることが判明した。それでもなおリチャードは諦めず、最後まで病と戦い続けた。最後の数日間は昏睡状態に陥り、静かに息を引き取った。リチャードを看取ったのは家族と限られた友人、そして最愛の女性でパートナーのゾーイであった。くしくも命日となった11月25日は、2001年に世界王者を獲得した日でもあった。

 生涯におけるWRC通算成績は10勝。優勝回数こそ少なかったが、リタイアも少なく全盛期には表彰台のどこかしらに立っていた。そのため2001年シーズンはたった1勝で世界王者を獲得し、「1勝もしないで世界王者」という前代未聞の記録が常に狙えるほどドライバーズポイント順位の上位に名前を連ねていた。

 2005年11月25日死去(享年34)


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