メーベル・ノーマンド



メーベル・エセルリード・ノーマンド(Mabel Ethelreid Normand 1892年11月10日生)
 [アメリカ・女優/映画監督]


 ニューヨーク州ニューヨーク市(スタテン島)で芸人一家の娘に生まれる。ノーマンドは10代のとき、映画界に進出する1911年まで画家のモデルとして働いた。映画のエキストラ出演を経た後、バイオグラフ・カンパニーに入社して本格的にキャリアをスタートさせた。当初は水着を着た女性を演じるなど、後のイメージとはかけ離れたものだったが、コメディの素質を見出されると、コメディエンヌとして仕事をこなすようになった。その間、スラップスティック・コメディの創始者とも言われるマック・セネットに出会った。セネットがキーストン・スタジオ社に移るのと同時に、ノーマンドも移籍。キーストンでは短編コメディ映画に多数出演した。

 1913年、まだ20歳のときに『Foiling Fickle Father』で初めて監督を務めた。この頃は主演も主だったが、ロスコー・アーバックル主演作品のヒロインも務めるなどした。1914年の『メーベルの窮境』では映画デビューして間もないチャーリー・チャップリンと初共演した。その後、ノーマンドはアーバックルと仕事を共にするようになり、キーストン社の大スターに育った。コメディエンヌとして頂点に登りつめた時期である。

 セネットを追うようにキーストン社に移籍したノーマンドであるが、当時セネットと恋人関係にあったとされている。しかし、キーストンを辞める数年前には破局を迎えたとされる。1918年、ゴールドウィン・ピクチャーズと契約し、カリフォルニア州カルバーシティーにスタジオを設立した。いくつかの長編映画の主演を務めたが、この時期は精神が不安定になり、度重なる情事やアルコール依存症など、徐々にノーマンドのキャリアもが不安定になっていく。その際読書に目覚め、夢中になったという。

 1920年代始め、新進映画監督のウィリアム・デズモンド・テイラーが自宅で殺害される事件が起こった。当時、ノーマンドとテイラーは親密な関係にあったとされ、事件当日も2人は一緒だった。ノーマンドがテイラーの自宅を出た直後、事件は起こったとされる。ノーマンドは重要参考人として取調べを受けたというが、結局、犯人が逮捕されることなく事件は迷宮入りになった。また、ノーマンドは精神が不安定になっていたため薬物を使用しており、それらのすべてがメディアによって「アーバックルの醜聞」に次ぐハリウッドの堕落として報道された。

 その後は2本の長編映画に出演するだけだったが、1924年の元旦、今度は2人の男(1人はお抱え運転手)がノーマンド争って、その目の前で男性を銃撃するという事件が起こった(男性は一命を取り留めた)。この事件により、彼女の女優生命はほとんど絶たれてしまう。

 1926年にはハル・ローチ・スタジオ社で映画復帰するが興行成績は芳しくなかった。同年に旧知の俳優であるルー・コーディと駆け落ちして、またもや話題となったが、短い結婚生活の後結核を患い、ノーマンドはハリウッドの第一線から完全に退いた。

 肺結核を悪化させ、カリフォルニア州モンロビアの結核療養所で過ごしていたが、療養の甲斐なく1930年2月23日に亡くなった。

 1930年2月23日死去(享年37)


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