五十嵐一



五十嵐一(いがらしひとし 1947年6月10日生)
 [中東イスラーム研究者]


 新潟県出身。新潟県立新潟高等学校を経て1970年に東京大学理学部数学科を卒業。理数系から人文系に転身し、1976年に同大学院美学芸術学博士課程を修了。同年からイランに留学して、イラン革命が起こった1979年までイラン王立哲学アカデミー研究員を務める。

 1990年に反イスラーム的とされるサルマン・ラシュディの小説『悪魔の詩』を日本語に翻訳した。五十嵐自身は「ホメイニー師の死刑宣告は勇み足であった」「イスラームこそ元来は、もっともっと大きくて健康的な宗教ではなかったか」と語っていたが、1991年7月11日、助教授として勤務していた筑波大学で何者かにより殺害(刺殺)された。

 五十嵐助教授は翌日7月12日早朝、筑波大学筑波キャンパスのエレベーターホールで全身血だらけで死んでいるのを清掃員によって発見された。死因は、頸部の動脈と静脈の切断による失血死で、現場は凄惨な光景だったという。現場からO型の血痕(被害者の血液型ではないため、犯人の血液型とされた)や犯人が残したとみられる中国製カンフーシューズの足跡(サイズ27.5cm)が見つかった。

 1989年2月にイランの最高指導者のアーヤトッラー・ホメイニーは反イスラーム的を理由に「悪魔の詩」の発行に関わった者などに対する死刑宣告を行っていたため、事件直後からイラン革命政府との関係が取り沙汰されていた。CIAの元職員ケネス・ポラックは、イラン軍部による犯行を示唆している。目撃されやすいエレベーターホールで襲撃した事実も見せしめ犯行のためと判断した。また、『週刊文春』1998年4月30日号は「『悪魔の詩』五十嵐助教授殺人に『容疑者』浮上」との記事を掲載。同誌が入手した「治安当局が『容疑者』を特定していた極秘報告書」によると、事件当時、東京入国管理局は筑波大学に短期留学していたバングラデシュ人学生を容疑者としてマークしていたという。この学生は五十嵐の遺体発見当日の昼過ぎに成田からバングラデシュに帰国しているが、イスラーム国家との関係悪化を恐れる日本政府の意向により捜査は打ち切られたと記事は述べている。

 だが、日本警察は、なぜ目撃されやすいエレベーターホールで襲撃したのか、なぜ目撃されにくい研究室で襲撃しなかったのかなど疑問点が挙げられ、個人的な怨恨による大学関係者の犯行の線も否定できないので、犯人像をイスラーム教徒に絞り込むことはできないとしている。

 捜査中、学内の五十嵐の机の引き出しから、殺害前数週間以内と思われる時期に五十嵐が書いたメモが発見された。これには壇ノ浦の戦いに関する四行詩が日本語およびフランス語で書かれていたが、4行目の「壇ノ浦で殺される」という日本語の段落に対し、フランス語で「階段の裏で殺される」と表現されていた。このことから、このメモが書かれた時点で、五十嵐は既に何者かが自分を殺そうとしていることを察知していたと言われている。

 15年後の2006年7月11日、真相が明らかにならないまま殺人罪の公訴時効が成立し未解決事件となった。外国人犯人説が存在するこの事件では、実行犯が国外に居続けたと仮定した場合は公訴時効は成立していないことになるが、警察は証拠品として保管していた被害者の遺品を遺族に返還している。

 イランの日刊紙サラームは、五十嵐の死を「全世界のイスラム教徒にとって朗報」と歓迎した。

 1991年7月11日死去(享年44)


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